ちひろ@わかばのリワマヒ日記帳

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zoom RSS ヤガミ・ユマ@鍋の国様からのご依頼SS

<<   作成日時 : 2009/06/02 06:54   >>

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 疑心暗鬼になったってろくな事はない、そんなことは重々承知だ。誰に言われずともよく、判っている。
 判っているからなんだというんだ。そんなことでは気持ちは動かせない。
 我ながら壊滅的に女々しい思考過ぎて、つくづく自分が嫌になる。
 旅行社からの手配連絡に添えられた一言は、ヤガミの行きたいところに連れて行って下さい、だった。たったそれだけの言葉にいろいろと考えを渦巻かせてしまう自分はまるで、得体の知れないものを前に触れようか迷いつつぐるぐると周囲を回って毛を逆立てている猫だ。
 素直に受け取ればいいのだ。彼女はこちらの望みに合わせたいと考えている。ただそれだけのことなのだ。彼女に限っては、裏を読むとか腹を探り合うとか、そういった対人儀式は必要ない。言葉はただそれだけの意味しか持たない、シンプルな構成だと判っているのに。
 先日の、退院祝いに訪ねた時もそうだった。会っていっぱい一緒にいたい……ただそれだけのシンプルな言葉を叫んで、彼女は必死に自分にすがりついてきた。あの時色々考えたり感じたことを忘れた訳じゃない。だが。
 思い出す。一時期、自分たちにとって言葉はけっしてそのままの意味を持たなかった。互いに相手を想う言葉を吐いているつもりでいて、その言葉を素直には受け取ろうとしなかった。疑心暗鬼は、もれなくついてきていたのだ。
「……」
 誰もいないのをいいことに盛大に頭をかき乱して、ヤガミは派手に舌を打つ。今は違う……とはいえ、あの頃の影は今も長く伸びて心に陰りを落とす瞬間がある。例えば、今のように。
 恋愛なんてするもんじゃない。相手が敵なら、どんなものでも迷わず立ち向かえるのだ。それがどれほど強い敵でも関係ない、己の信じるものに殉じて戦うのみだ。それで命が尽きればそれはその時のこと、きっと骨は誰かが拾ってくれるだろうし、こちらの意志と志を同じくする人達によって戦いは続けられていくだろう。
 迷いは、躊躇いは時によって押し寄せる。だが、それが足を止める要因になることなんてない。
 けれど、恋愛は。
 たやすく迷う。悩む。戸惑い、恐怖すら覚える。足なんて、簡単に止まってしまうのだ。敵を前にした足取りは、いつだって軽く、揺るぎないのに。
 また一つ、思い出したビジョンにもう一度舌を打つ。迷い、悩み、戸惑い、恐怖、あの時自分にあったものは、いったいなんだっただろう。


/*/


「そろそろ退院だな。おめでとう……花でも贈るよ」
 まじまじと見つめてくる視線を躱すように、微笑みを口元に飾る。覚悟なら、ここに来る前に決めていた。彼女には気取られないように、この笑みは鎧だ。 
 肌の上を滑っていた視線がようやく目元に戻ってきて、ヒサ子は長い髪を揺らすように小首を傾げる。
「ヤガミ、最近暑いとこにでもいるの?」
 不思議そうに呟いてから、はっとしたように目をぱっと見開き、にっこりと邪気のない笑みを幼げな顔に浮かべる。
「ありがとー。じゃあ先に私から、プレゼント」
 意外な一言に、笑顔の下で心が揺れる。コルセットを嵌めているせいか動きづらそうにしながら、ヒサ子は傍らの整理棚を指さす。
「そこの棚の中。一番上」
 立ち上がって、指定された棚から包みを取り出す。中から現れたのは渋い色合いのマフラーだった。
「うちの国とか、ここだと必要なさそうだけど、火星ならそうでもないかなって思って。でも暑いとこだと必要ないかも。しっぱい」
 参りましたと言いたげに眉尻を下げて、ヒサ子はその下からやや気弱な笑顔を送ってくる。ヤガミは微笑んだ。
「ありがとう」
 その一言にほっと息を吐き出すようにして、ヒサ子は両手を持ち上げてまた笑う。
「どういたしまして。手編みじゃないのでご安心ください。この手では無理でした!」
 冗談めかして告げる言葉に、僅かに片隅にあった疑念が一蹴される。当然だろう。そうでなくては、こっちも困る。
「そりゃそうだ。そんなことしたら二度とここにはこないところだった」
 こちらとしては当然のことを言ったまでなのに、ヒサ子は判りやすく表情を変えた。背後に盛大に「ガーン」という書き文字さえ見える気がして、その反応の方がよほど判らない。相変わらず、こちらの予測をたやすく裏切る娘だ。
「ひ、ひどっ」
「なにが?」
「なんで手編みだと二度ときてくれないんですかー」
「いや、怪我してるのに無理させたらだめだろう」
 そもそもその傷だって、自分が原因となって生じたものなのだ。彼女は、そんなことも忘れてしまったのだろうか。
 このことを思い返す度に胸に生まれる痛みを抑えて、ヤガミは微笑みをいっそう分厚く顔に塗り込める。それに気がついているのかいないのか、ヒサ子は彼女にしては珍しくやや曖昧な笑みを見せた。
「うーん……でもそろそろリハビリとかいるかも」
 考え考え話しているようで、また視線がヤガミの表情をつつき出す。そういったことに疎いように見えても、やはりそこは女だけあって特別な勘が働くのかもしれない。分厚く塗り固めた笑顔の仮面をなで回すような視線を、ヤガミは何気ない言葉でやり過ごそうとする。
「退院するくらいだからな」
 世間話レベルの言葉にも、ヒサ子は気を取られる様子もない。どうやら本格的に、彼女はこちらの変質を感じ取っているらしい。
 だが、自分の覚悟までは判らないだろう。
「元気になれ。いつも応援している」
 喉の奥に重く濁ったなにかが現れる。それを飲み込んで、ヤガミは笑顔を絶やさぬままそんな言葉を投げる。本当は手を伸ばしてその髪を撫でたかったのだが、今彼女に触れてしまえばまずいことになる、それが判っていたから握った手は膝に置いたままだ。
 覚悟を決めてきた。その筈なのに、触れただけで怪しくなってしまいそうなのが自分のことながらいやになる。
「困ったなあ……さっぱりわかんない。うーん」
 似合わない眉を潜めた顔つきのままぶつぶつと呟きを漏らし、ヒサ子はもう笑顔さえ浮かべずに再びヤガミの顔を見返してくる。
「うん。そろそろ退院。ヤガミの言ってた、用っていうのは終わりましたか」
「……そんなこといってたっけ」
 唐突な問いかけに、思わずこちらまで眉を潜めてしまう。咄嗟に思い出せずに、ヤガミは記憶を探りながら呟いてしまう。
「元気。だいじょぶ。ぶい……はっはっは。うん、そんな気はしてました。んーとー」
 いささかずれた反応は、彼女にも気を取られることがありすぎてのことだろう。あからさまに無理していると判る笑顔を作ってから、ヒサ子はいきなりしょげたように肩を落とす。めまぐるしすぎる変化に、どうにもついて行けてない。
 それともまた、なにか変な誤解というか曲解に基づいて暴走しようとしているのだろうか。あり得る話だと心中それに対する備えを仕掛けたところで、考えをまとめようとするように視線をさ迷わせていたヒサ子に上目使いに見上げられる。
「ヤガミ、そのポケットの中のものとか先週の出来事とか覚えてますか」
 唐突にまた判りづらい発言だ。毎度のことだが、なにを指摘しようとしているのか見当もつかない。
「? 俺のポケットの中? いや、すっからかんというか、さっき外したネックレスははいってるが。それのことか?」
「うん。まあそれ。んー」
 多分違うんだろうなと思いつつ答えると、もうそのことに対する関心を失ったかのような、意味の掴みづらい返事がくる。口元に握った拳を押しあてるようにして、ヒサ子は視線を病院の漂白された上掛けに落とす。
「別に何もかも忘れるわけじゃないのかなあ。それともわたし関連のこと忘れるのかな。それとも嘘かな、いっそ本気で忘れてるのかな」
 思考がだだ漏れの呟きに耳を澄ます。その言葉から推測できる彼女の思考をトレースする。自分とは異質な思考の流れを追いかけるのは正直骨の折れる仕事ではあったが、答えは見つかった。
「……」
 ろくでもない過去の記憶。いや、ろくでもないというのは自分の振る舞いについてだけの話ではあるが。だが、誘発させるのはいつだって彼女の方だ。今、この時の自分がそうであるように。
 ヤガミは自分で自分の手を掴んだ。反射的にやりそうになった振る舞いをかろうじて押さえつけ、その分だけ笑顔が崩れた。
「なんのことかな?」
 小さく、息づかいが途切れる気配。 
「二人で公園にいったことか?」 
「……ヤガミ」
 どうやらそれは正解だったようだ。とはいえ、みるみるうちに泣きそうな顔になったヒサ子を前に、すぐにそのことは二の次になってしまったのだが。こくりと一度息を飲むようにして、ヒサ子は大きな目を潤ませて震える唇を開く。
「べつに、無理に笑わなくていい。そっちの方が、わたしつらい」
 ああ、駄目だ……そう思った時にはもう、押しとどめる軛をはねのけて彼の手は動いていた。正面から額を叩かれて、ヒサ子は小さく声を上げて身をすくめる。
「なんの話だ、なんの。ただし恥ずかしい話を蒸し返すのはやめろ……この間見舞いに来てそれで?」
 額を押さえて身をちぢこませ、ヒサ子はヤガミを見ようとはしない。視線が合わないことがなんとも腹立たしい。その感情の裏に痛みがあることには、彼自身気がついていなかったが。
 無理矢理にでも自分の方に顔を向けさせてやりたいような気持ちを抑えつけて、ヤガミは辛抱強くヒサの言葉の続きを待つ。
「……リアルおちこみです。猛烈に。恥ずかしい話を蒸し返すなといわれても、前回は恥ずかしいことしか……あー」
 いったい彼女は、自分と同じ言語で話をしているのだろうか。もう少し完結に、理論立てて話して貰えないと、ついていくだけで精一杯だ。
「頭叩かれておかしくなったら全力ですまん。注意してたんだが腹が立ったのでお前のせいだが一応あやまっておく」
 そもそも彼女は自分に判るように話をする気があるんだろうか……苛立ち紛れにそんなことを考えて、ヤガミはけれど結局そんなことを言って頭を下げる。十分な説明もされないまま結果だけを見せつけられているこの状況には理不尽さを感じずにはいられないのだが、なにしろ結果というのが目の前で今にも涙をこぼさんばかりになっているヒサの姿だからして。
 こちらの言っていることがちゃんと耳に届いているのかも怪しい素振りで、ヒサはぎゅうっと上掛けの縁を握りしめている。本当に泣き出すんじゃないかと身構えているヤガミの前で、一度噛まれた唇がまたゆっくりと開かれる。
「ええと……話を戻すと、私が退院するまでに用事が終わったら恋人にしてくれるって言いました。ものすごくはしょると」
 彼女の声とも思えないようなしわがれた声は、泣くのを懸命に堪えているが為の聞き取りづらさだ。指摘された事項に、今度視線をそらすのはヤガミの方だった。
 確かに、そう口にした。よく覚えている。だが今となってはもう、それは守れない約束だ。
「……そんなこと言ったかな」
 だから結局、こういう言葉の選択しか出来ないのだ。
「うん…………いや、これは今の発言が頭おかしいぞお前って意味ですか」
 長い無言は、彼の言葉を咀嚼するためだろう。濡れた大きな目はやはりヤガミには向けられず、紡がれた言葉に苛立ちはまた暈を増す。咀嚼するべき場所が、はなから違っている。
 拳をぐっとにぎりしめて、ヤガミはヒサ子に気付かれないよう深呼吸した。
「いや、なんというか、リアル落ち込むとか無理に笑うとかどういう了見だと。悪かった。大人気なかった」
 彼女といると、はてしなく自分の忍耐が試される気がする。手を出さなかった以上の譲歩だろう、今の言葉は。
 だというのに、ヒサ子はその発言自体をまったく聞いてはいないようだった。視線は上掛けに固定されたまま、強張って動かない。
 多分、泣くのを必死に堪えている。それはよく判る。判るがしかし。
「……ものすごく後ろめたそうと言うか、嫌ですか。嫌なんですか。嫌なら早めに行ってくれたほうが心の傷を治療する時間を多く取れます」
 この発言は、いったいどこから来るものなのか。ヒサ子の中で今までの会話はどんな変換をされているのか。
 ヤガミにとってはそこは取り上げるところじゃないだろと突っ込みたくなる場所を、ピンポイントでピックアップしてはそれを基点に暴走する。たいがい言葉を隠している自分も自分だが……いや、これはもう決めたことだった。
 ヒサ子が何を思い詰めてそんなことを口にしているのか、うっすら判らなくもなかったが、自分まで推測で話し出したら事態が混迷の度合いを深めるのは必至だ。
「なにが嫌でなにが後ろめたいんだ」
 だから彼女が答を導きやすいように、簡潔に判りやすく問いを投げかける。
「いえ。ヤガミの笑顔が無理に笑ってるように見えました。錯角だったらごめんなさい。でも正直、そういう風な笑顔は心底落ち込むなあと素直に告白してみたのみです」
 俯いた顔にかかる髪をのろのろとかきあげて、ヒサ子は依然聞き取りづらい声で囁く。自分の耳にさえ、その言葉を届けたくないと思っているかのように。
「わたしを恋人にしてくれるって言ったのとか」
 ひときわ激しく震えた声は、その内側に大量の水分を感じさせて、いろいろな意味で待ってくれと声を上げたくなる。頼むから、こちらを置いてきぼりにして突っ走らないで欲しい。意図と違うところで傷つかれると、さすがにどうしていいか判らなくなるだろう。
「俺にわかるように言ってくれ、お嬢さん」
 そう呟きつつも、ヒサ子の言葉を反芻していく。無理に笑っている……彼女の指摘は的外れではない。だが恐らくはそこに至るまでのなにもかもを間違えている。
「いや、今の笑顔は・・・ほんとにわかってないんだろうな?」
 念押しをするように顔を覗き込む。はっと顔をあげたヒサ子はなぜか捨て鉢になってでもいるような刺々しさで、ヤガミを睨みつけた。
「主語と言うか目的語と言うか、その辺を混ぜてもう一度お願いします」
 怒りたいのはこっちだ、バカ。
「何を聞かれてるのかすらわかりません! あうっ」
 再度額に決まった手刀に、ヒサ子は額を押さえて先程までとは様子の違う涙目になった。見上げてくる非難の眼差しに、思い切り笑顔を作る。
「これを我慢して笑顔になってやろうとおもっていただけだ。 もうやめた」
 笑顔の理由はそれが全てじゃない。だが全てを明かす気がない以上は、それだけ伝われば十分だ。
「調子が出てきた」
 そう言いながら、びしりと再度額を叩く。
「なるほど!」
 ヒサ子はにぱっと笑って手を打った。すぐにそれはくしゃくしゃと崩れ、なおもチョップを決めようとするヤガミの手を、なんとか掴み取ろうとし始める。
「わう、あー、まぎらわしいんですっ、わーん」
 それはお互い様だろう。なにもかもこちらのせいにされるのは、甚だ心外なんだが。
 大事だ。大事なのだ。例え彼女につゆほども通じていなくても、そんなことはいっこうに構わない。それは自分にとっての至高の想いであって、自分にさえ意味があればそれで構わないことだから。
 だがそれはそれとして。
「見舞いに来て悲しそうな顔されて俺のせいだと言われたら怒るだろう」
 こう思ってしまう自分は身勝手だろうか。そんなわけはあるまい。
 誰が見聞きしても賛同を得られそうな理由だろう。なのにヒサ子は大きな目をいっぱいに見開いて、さっきと同じ話調で叫ぶのだ。
「だって……! ヤガミが一番嬉しいし、悲しいもん」
「俺がどれだけ、なんだその一番嬉しい+悲しいとは」
 勢いで言い返しそうになって、投げ付けられた言葉に躓く。不意に覚えた、ぞくりとするような感覚。
 やっぱり泣き出しそうな顔のまま、ヒサ子は言葉を投げ付けてくる。
「わたしの中で、ヤガミが一番重要度が高いと言う意味ですっ」
「……」
 胸の中で、それに呼応するように言葉が炸裂する。断片になった言葉たちが、意味すら失ってぐるぐると回り出す。
 言葉は思いを司る。だからこうして砕けてしまえば、もう。
「そうか」
 零れた言葉はたったこれだけ。
 そう、手遅れなのだ、なにもかも。自分はもう、心を決めてしまったのだから。
 今日を最後に、二度と逢わないと。


 ……あの時、確かに自分は本気でそう思っていたのだ。
 振り返れば、自分なりに必死ではあった。彼女の思いは幼いが故の一過性のものだ、そう思い、出来るだけ遠ざけようとした。その結果あの事故を引き起こし、それからは彼女が望む分だけ、出来るだけ側にいよう……彼女が退院するまでは、そう思った。無理に遠ざけようとはするまい、なにしろ彼女は自分のせいで怪我をしたのだから。その責任は取るのが当然だ、そう考えて、自分の意図とは違うコインを渡しさえした。
 今現在の時点から見返せば、笑えるほどにやることなすことが全て裏目に出ていたのだ。彼女の思いを躱し続けた公園での一件のあと、思い返して気づいた事実に愕然とした。
 自分と会うことで、彼女はどんどん笑顔を失っていく。代わりにその愛らしい顔を占めていくのは、思い詰めたような顔か泣きそうな顔ばかり。そんな顔をさせているのは誰だ。自分しか、いない。
 だから、決めたのだ。もう逢うのは止めよう、そうすることが、彼女のためだと。彼女に自分が出来る、最後のことなのだと。
 その決意を秘めて行った結果は、彼女の再骨折による入院延長であり、自分にとっては病院への出入り禁止だったわけだが。これにはさすがに、最初のうちはかなり落ち込んだ。やはり自分は彼女を不幸にする原因なのだ、そう思いもした……最初のうちは。
 元々は自分で決めていたことだとはいえ、一ヶ月、もし会いたいと望んでも自分の意志とはなんの関係もなく会えないという状態は、結果当初の考えとは少し違う心境を自分にもたらしたと言っていいかもしれない。その間ゆかりに振り回され続けたというのも、心理に微妙に影響を与えたのかもしれなかった。
 ともあれ退院するという情報を耳にした時、なんの障壁もなく思ったのだ。逢いに行こう、と。
 自分は彼女にとって疫病神かもしれない。今までの経緯を見るにつけ、やっぱりそう思わなくもない。
 それでも、逢いに行こうとごく自然に思った。もしも自分が彼女の笑顔を奪うことしかできない疫病神だとしたら……そうであったと今度こそはっきりと判ったら、その時に考えればいい。思考放棄だと囁く声が胸になかった訳じゃない。ただそれでも……その糾弾の声に耳を塞ぐという独善を犯すとしても、彼女の顔が見たかった。
 そうして再び逢った彼女は、笑顔で出迎えてくれた。
 なにもかもが許されるというわけではないだろうし、自分だけが悪いわけではないとも思う。
 ただ今にして思うのは、自分を糾弾する声にだけ耳を傾けていたことの方が、より思考放棄だったのだろうということだ。そうさせた要因が、全てをひっくるめて自分の弱さだったのだろうとも思う。
 長い弧を描いて戻ってきた思考に、ヤガミは無意識に顔をしかめる。行きたいところに連れていってほしい……その言葉の真意を探ろうとする心の動きも、やはり弱さだ。恋は人の心を弱くするとは、本当によく言ったものだ。
 思いあぐねてふらふらとさ迷った視線が、置き去りにしていた新聞に吸い寄せられる。そこにあった宣伝記事に、心はすぐに決まった。
 本当にシンプルな言葉を前に、シンプルに結論を出してみれば、それはひどくありきたりな結果になる。自分の行きたい場所は、彼女が笑顔になってくれる場所。彼女の喜びそうな場所だった。
 心はやはり揺れるものだし、疑心暗鬼はまだまだ抜き去りがたく胸にあるけれど。どんなに自分に傷つけられても近づくことをやめようとしなかった彼女の笑顔を前に、一緒にいることで彼女が幸せになる道がもしも本当にあるのなら……そう思ったことも、また事実だから。


/*/


 念願の笑顔を前にして、やっぱりそれをまっすぐに見られないあたり、いろんな意味でこう、どうしようもないと自分でも思う。
 第一、笑顔の頻度が高すぎる。この前退院直後に逢いにいった時からこっち、今までの比ではない勢いで、惜しげもなく彼女の笑顔が向けられているのだ。まぁ、今彼女の視線はメニューに釘付けになっているわけで、必ずしも自分に向けられたとは言いきれないが。
 それでも、眼をきらきらさせたはしゃいだ笑顔を見せるヒサ子を前に、自分の選択は間違っていなかったと改めて確信する。ここはやはり、胸を張ってもいいポイントじゃないだろうか。
 運ばれてきたケーキを前に、ヒサ子はいよいよ嬉しげに両手を合わせている。置かれたコーヒーカップを持ち上げつつ、ヤガミは気づかれないようにその顔に見入った。
「菓子万博だそうだ」
「すごく興味がありましたっ。ばればれですね」
 オレンジのムース部分をつつくようにしながら、ヒサ子は笑顔でヤガミを見返す。
「うれしいです」
 本当に幸せそうな笑顔に、緩んだ口元をカップで隠す。一口目でもう糸のように細めた眼を不意にぱちりと開いて、ヒサ子はこちらを伺うような上目遣いを見せた。
「ヤガミはそんなにケーキ好きじゃない?」
「夕食とケーキどっちにするかといったら迷わないな。もちろんうまいとも思うし、そう言う意味では好きなんだが・・・」
 その答えのどこがおかしかったのか、ヒサ子は笑いながらフォークを口元に運ぶ。
「あはは。夕食でもよかったのにー。こないだ、せっかく誘ってくれたのに、わがままいっちゃって。えーと」
 途中から不意に神妙な顔つきになるのはどうしてか。横目で見ていた彼女の顔からまた窓の外の雪景色に視線を向け、ヤガミは苦い笑いを頬杖で隠す。
「いいさ。夕食はエステルとでも食べる」
 窓ガラスに映った彼女の表情は、自分のものよりはよっぽど穏やかな苦笑だった。
「……もう。今度はちゃんと夕食行きましょうねっていおうと思ったのに」
 紡がれる言葉も以前とは違って切迫していない。自分に変化をもたらした一ヶ月という時間は、彼女の方により顕著に変化をもたらしたのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
「エステル相手でもいいような意味だったんですね」
 拗ねたような口調さえ柔らかい。そして、言葉は以前と違って素直に耳に届く。
「……お前といけるのが一番いいさ」
 それにつられたわけではないだろうが、そんな言葉がつるりと唇からこぼれた。
「でも、次っていつだ? ……それだけさ」
 自分でもなんだか驚くくらい、ストレートな言葉がこぼれ落ちていく。窓ガラスに映る彼女の横顔が、真っ赤に染まっていくのが見えた。
「……もー」
 俯いて照れをごまかすように唇を尖らせる彼女の姿に眼を細める。咄嗟に口にしたのはしなくてもいいネタバレで、自分は多少動揺しているのかもしれない。
「あー。あと名前のところは、その、誰でもいいが、男だといかにもモテテなさそうだ」
「だいじょぶです。ヤガミが他の女の子の名前を頻繁に出すの、それなりに慣れました」
 まだ顔が赤いままにこりと微笑む顔は、やはり穏やかだ。そんなことに慣れさせたいわけではなかったのだが……これは、多分自分が悪いのだろう。そう素直に考えてしまう自分が、やっぱり不思議な感じで、けれど嫌なわけではなく。
 会話が途切れる。ふと遠くを見る眼差しで眼を細め、ヒサ子は囁くような小声で呟く。
「……いつでしょうね。今月の末にも会えるようにがんばりたいと思います。倍率高そうなんですけど」
「ああ」
 システムは知っている。彼女のように逢いたい人に逢おうとするプレイヤー達が多くいることも。だから。
「期待しないで、まってる」
 プレッシャーをかけたくない……そんな気持ちだったのだが、彼女はなんともいえない表情で苦笑した。
「……あはー……ここでちょー期待してなさい、絶対ですと言えない甲斐性のなさが切ないですねっ」
 だから、そんな顔をさせたいわけではないというのに。
 これ以上この話題を続ける危険を悟って、ヤガミは半分くらいに減ったケーキに横目を向けた。
「うまいか?」
 途端に、ヒサ子が相好を崩す。
「オレンジとチョコの組み合わせは中々凶悪だと思うんです」
 そう言いながら器用にフォークでひとかけら切り分け、ヒサ子はそれをヤガミに向かって差し出してきた。
「食べます?」
 思わず辺りを見回しそうになって、危ういところでそれを止める。ここでこれを自分に食えと、本気で言って……いるんだろうな。だがしかし、こちらをまっすぐに見つめて微笑むヒサ子の表情に、以前のような無頓着な邪気のなさは感じられなかった。
 覚悟を決めて、ヤガミはフォークに口を近づけ、その先に乗ったケーキを口に入れた。甘い。その上ブランデーを大量に含みでもしているように、くらくらする。
「胸焼けしそうだな。しないのか」
 ひどく嬉しそうにへへーっと笑ったヒサ子に、なんとか平静を装って尋ねる。
「んと。これくらいを一個なら、胸焼けはしないと思う……」
 その時だけふと神妙な顔つきになってケーキに視線を落とし、ヒサ子はすぐにまた顔を上げてこちらに微笑みかけてくる。本当に、今日は笑顔が供給過剰だ。いや、正直言えばそんなことはない。もっと見せてくれて、全然構わない。
 くらくらする意識が自分でもおかしいくらいに甘い方へ流れていくようで、けれどどうしてかそれを止めようとは思わない。ほんの少しだけ大人びたヒサ子の笑みが、そうさせるのかもしれない、そんなことをちらりと考えて。
 それもいいのかもしれない、そうも思った。そう思うと、なんだか肩の力が抜けていく気がした。
 嬉しそうにバレンタインの計画を語るヒサ子に合わせるように、言葉も口元も柔らかく解けていく。そうなる度に、力が抜けていく。こんな簡単なことでよかったのか……うっすらとそう感じて、けれどその想いをしっかり受け止める前に彼女が口にした聞き捨てならない言葉に、ヤガミは思わず身を乗り出していた。
「だれの?」
「わたしの」
 バースデー、だって? そんな話は聞いていない。確かにリサーチ不足と言えばそうだが、それにしたって。真顔のこちらに気づいたのは、ちょっと慌てたように色々言いだすヒサ子を遮って、ヤガミは単刀直入に尋ねた。
「いつが誕生日なんだ?」
「1月4日」
 一ヶ月も前の日付を口にして、ヒサ子はこともなげに笑う。
「入院中でした。あはは。あ、でもごはんの時にケーキ出たんですよっ」
「ばか」
 なんでだか意気込むような言葉を一言で切って捨て、ヤガミは伝票を手に立ち上がった。きょとんとした表情は、とても愛らしいのだけれど。
「……いくぞ」
 そう言い捨てて、足早に出口へと向かう。会計を済ませたタイミングで、上着を手にしたヒサ子が追いついてきた。
 誕生日……急に言われても、だいたいここでどれだけのものが手に入るだろう。彼女が喜びそうなもの、いくつか思いつきはするが今ここで手に入るだろうか。せめて一日前に教えてくれていれば、用意もいくらか簡単にできたはずなのに。
 誕生日なんて。一番の記念日じゃないか。こんな慌ただしく祝うこと自体がもう、ああでも、遅れてでも知れてよかった。気がつかず帰すなんてことを、せずにすんでよかった。
「欲しいものは?」
 通りに幾つか見える店を目で物色しながら、思いついて尋ねる。しっかりと用意したサプライズは来年に持ち越しだ。とにかく今は……このまますんなりと帰せるものか。
 どん、とぶつかってきた衝撃に咄嗟に手を伸ばして細い肩を抱き、ヤガミは精一杯の力で抱き着いてきたヒサ子を見下ろす。
「どうした?」
「えと、どうしよう、うれしい」
 たどたどしく言葉を操る彼女の顔は、真っ赤に染まっていた。くしゃりと歪んだ泣きそうな顔は、同時に輝くような喜びも映している。
「こんなところで。いやらしいぞ」
 咄嗟の動揺をごまかすようにそんな仕様もないことを言ってしまった自分に、ヒサ子はあふれかえる喜びをそのまま形にしたような声で叫ぶように言った。
「なんでもいい。ヤガミがくれるなら、ヤガミがわたしのこと想ってくれるなら、なんでもすごくうれしい」
 不意に子供に戻ったように稚拙な、だがそれだけに隠しようもなく激情迸るその響き。言葉よりも雄弁な抱きしめる腕の切ないくらいの強さ。
 判らないはずがない。今の彼女から、受け取れない訳がない。愛情も、喜びも、まさしくその化身のように、今彼女はここにいる。
 言葉が詰まった。なにをどう言えばいいのか判らなくなる。かつて自分が打ち砕かれて言葉を見失ったのだとすれば、今のこれは、その熱に溶かされて輪郭を失ったとでも言えばいいのか。
「ばか。えーと」
「わ、わたし、ヤガミがわたしのこと想ってくれるのが、一番のプレゼントっ」
 必死にかき集めてぶつけてきたような言葉は飾り気がない生の熱気に溢れていて、想いの洪水にもう……溺れそうだ。
「そんなものは毎日うけとれ……いいからいくぞ」
 ああもう、自分まで熱に浮かされてとんでもないことを口走ってしまったじゃないか。まぁ、嘘ではない、けれども。
 無理矢理軌道修正を図って歩き出す。つい足早になってしまう自分にしがみつくようにして、ヒサは跳ねるような足取りでついてくる。歩きづらい。だけど、彼女の肩を抱いた手を離す気はない。ヒサ子もきっと、腰に抱き着くようにした腕を解く気などないだろう。
 今更ながらに、ようやく思い出す。
 敵を前にした足取りは、いつだって軽く、揺るぎない。比べて愛情に囚われればたやすく迷う。悩む。戸惑い、恐怖すら覚え。時に重く煩わしい思いは足を止めることもある。
 だがきっと、足を止めさせるほどのその重さが心の中になかったら、ここまで戦ってこれはしなかったのだ。
 顔を真っ赤にしたヒサ子は、雪に足を取られつつも懸命についてくる。彼女に合わせて歩調を緩めると、こちらを見上げた顔が見る間に笑顔に変わった。腰に巻き付いた腕にまた少し力がこもるのが感じられて、ヤガミも自然と微笑みを返す。
 それから二人は肩を寄せ合うようにして、人通りの少ない雪の通りを、同じ歩調で歩いていった。

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